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2007年1月13日土曜日

チョコラータの到着か!

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カエル殺すカビ日本上陸、流行すれば絶滅の危機も

これなんて『グリーン・デイ』?(※ジョジョネタ)

時代の価値観

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先日、僕と母と甥の3人で飯を食っていて、母が携帯の操作に関しての話をしてきたついでに、僕がiPhoneってやつが出てだな、と言う話をした。
僕は、iPhoneにはボタンがなくて、画面しかなくて、それで操作するんだ、ってことを言った(僕はこういう風に、あえて説明を少なくして想像力を見ることがたまにある)。
母はどういうことだという風に理解出来なかった。
僕は専門分野でないにしろ畑であることには違いないので割愛。
甥は「DSみたいにするん?」と想像した。ていうかDSはボタンあるんだが。まあでも大体あってる。ペンはないけどね、と僕は補足した。
母と甥の年齢差は約50。時代の価値観ってやつが如実に出ても不思議でない年齢だ。
母は戦後、いわば団塊の世代に生きた人である。僕はバブルがはじけた後の不況のときに学生時代を過ごし、現在の「実感なき好景気」時代に社会に出ようとする人間である。甥は教育論争が全国的に巻き起こり、少子化の煽りをモロに受けるであろう世代の人間だ。
まるで歴史小説の中の登場人物のように、こう俯瞰してみると、時代ってのが感じられて面白い。
僕は甥に、「英語だけはしっかり勉強しておけよ」と言うぐらいしかアドバイスが出来ないけれど。少なくとも、甥が小学校を卒業するまでには、週休完全2日制は撤回されてるだろうと予想する。お偉方が相当な国粋主義者でない限り、英語教育により力を入れるようになるだろうことも。また、中学校に上がったときにクラスに何人かは外国人がいるのが当たり前だというようなことになるというのもあながちフィクションの世界ではない。
中国に労働資本を移した大企業では、今までは日本語で指揮を執っていたのだが(採用される側の中国人の前提能力として『日本語理解』ってのがあった)、現在ではもう殆ど英語にシフトして行ってるらしい。理由は色々あってそれぞれが複雑に絡まっているけれど。
僕が最も注視すべき問題は、そういう、労働力の質量共の流動・変動だ。国内では正社員が減少し(これは不況の煽りを受けただけって見方もあるけど)、非正規社員の割合が多くなっている。労働資本は、安くて数が多くて質の高い中国やインドへ自然に流れる(インターネットの発展がそれを手助けしている)。中国・インドの総人口で世界の1/3ほどになるしな。
とまあ、こういうことを言うと、必ず「実際はそんなことないから」と反駁してくる人が何人かはいるのだが、僕から言うと「それはあなたの周囲での話でしょ」と言う感じだ。好景気だと数値でも示されてるにも関わらず実感がない、それの相似だということにそう言う人は気付かない。大体、本当に実際はそんなことがないんだったら、わざわざ社会問題として取り上げられもしない。まあ確かに、僕が上記で書いた「注視すべき問題」ってのは僕の主張や意見じゃなく「見方」に過ぎないけれどもね。とある中小企業で働いてる人にとって見れば、その「見方」は実生活に即さないわけだから一笑に付す価値があると言うわけだ。正しい間違ってるってのはその見方が違うだけであって、善悪二元的なものでもない。僕はその見方を支持する。他の人は別の見方を支持する。それでいいじゃないか。
専門学校の友人の多くは、「いいなあ、大学生は遊べて」と言う見方をしている人が多い。この見方は面白いと僕は思う。専門学校生には大きく分けて以下のタイプがある。
1:大学生になっている友人がいない
2:大学生になっている友人はいるが文系だけである
3:大学生になっている友人はいるが理系だけである
4:自身も過去に文系の大学生だったことがある(僕がこれに当てはまる)
5:自身も過去に理系の大学生だったことがある
厳密に分ければ、大学のランク等も関わってくるがこの際は無視する。
①の人の言うそれは、あくまで、大学にたいして持つイメージや理想に過ぎない。
②の人の言うそれは、あくまで、友人に聞いた話でしかない。
③の人の言うそれは、あくまで、友人に聞いた話でしかない。
④の人の言うそれは、あくまで、自身の体験談でしかない。
⑤の人の言うそれは、あくまで、自身の体験談でしかない。
②と③、④と⑤、それぞれの間にはちょっとした注釈が必要だと思う。
その前に先ず僕の解釈から言うと、理系は文系に比べて圧倒的に忙しいということだ。4年と言うタイムラインで観たときも、僕が周囲から聞く限り、文系と理系では学校に行く時間が、時間軸が流れるに連れて反比例する。最もこれも個人差があるために総論ではないけど。
そういう解釈を踏まえて言えば、②③の友人に聞いた話でしかないのに「大学生は遊べていいなあ」と言うことは、②の場合はその友人の現実なのかも知れないし、③の場合はその友人の現実ではないにしろ、「大学生」に関しての世間のイメージをそのまま言っているだけなのかも知れない。


あーつまらん分析だ。僕が学歴コンプレックスみたいに見えるからこんなのは止めだ。高校時代の友人なら感じていると思うが、僕はむしろ学歴主義から真っ向から反対するタイプの人間だ。17歳ぐらいのときから学歴主義はこれからの時代にそぐわないと思ってきた。その頃には雑誌で「大学全入時代突入」ってこともひそかに言われていたし。だから、僕が大学を辞める決意した(一応蛇足的に言うが大学に入る前に大学を辞める決意をしたのだ)のは一種の賭けだった。大学に入学し卒業することが当たり前になってしまえば、「大学も出てないの?プギャー」と笑われるか、あるいは、大学そのものの存在意義を見直すような時代になるか、のどちらかだと思ったからだ。そして、僕はその頃から4年間遊び倒すような人のことを知人から多く見聞きしていたので、「そんなのがスタンダードになるはずがない」と思って、後者を支持するようになったのだ。もし僕が何らかの理由で前者を支持すれば、大学はちゃんと卒業していただろうね。でもその理由がなかった。むしろ思いつく理由は、全て後者を支持させるに足る理由だった。それが、後者を支持したいがために正当化した理由じゃないのかといわれると難しいところだけど。まあ、高校生のときの浅はかな思考だ。

学歴の価値暴落 東大卒「割に合わない」

それに大体学歴ってのは一種の偏見に他ならない。学歴が高いから有能になるんではなくて、有能な人に学歴高い人が多いというだけで。『知性と知識を履き違えるような…』と言うやつだな。僕は知性がないので張子の虎になることは止めた。学があれば小うるさく感じるし、学がないと馬鹿にされる。ジョン・レノンもこう言ってた。『賢いと嫌われるし、馬鹿だと軽蔑される』。『否定されない人間などいない』ってやつだ。アダム・スミスも『自分の道を進め。批判は他人に任せろ』って諧謔たっぷりに言ってた。気にしちゃ何も出来ないよな。『いわゆる優等生タイプは好かれはするが距離を置かれ、何かが欠如した人ほど愛される』と言う皮肉な言葉もあったしな。後悔しない人などいない。万能の人もいない。けど自分への自信や正しさを持つことは、片足を狂気の世界に突っ込んでいることと同じだ。僕?僕はどうか?唯一いえることは、僕はたぶん致命的な間違いを犯しているということだな。