ページ

2008年2月27日水曜日

『充実した一時間は忘却と不注意の数世紀より価値がある。──イオネスコ』

0 件のコメント:
初号機が共感できることを書いてたので僕も便乗。引用するけど許してね。
正直がんばっている感覚はないです
どちらかというと、
自分を磨いていないとそこはかとない不安感を感じる瞬間があるのと、
他人よりちょこっとだけ時間の使い方が上手なだけで、
時間的リソースを有効に使いたくなり、
未来に対する先行投資を行っているだけです

未来の自分を落胆させるのはもう嫌だから

要するに自己研鑽なんてかっこいいものではなく、
ただの暇つぶしなのさ
ゲームとかもしてるし読書もしてるしバイクにも乗るし、
そのひとつとしてTOEICがあるだけでつ
恐らく僕と初号機はまったく似たような印象を他人からもたれてるんだと思う。他人の印象ほど頑張ってるわけでは決してない。むしろ、僕のやってることを努力と言うなら本当の努力家に対して失礼だと言いたいぐらい。
でもまあ実際問題、僕は努力しないと何も実に出来ない人間であることは確かなので、努力家という要素を持ち合わせてることは否定できないんだけど。
何故そこまで努力家だと思われるのかというと、十中八九、持つ知識の量であったり、趣味の多さであったり、会話の多様さであったり、その他様々な実績から総合的に判断されてのことだと思うけど、そういうのって「単なる努力」では身につかない。
相手の性格や嗜好に合わせた人付き合い、会話。読書。遊び。その中で自分が相手に提供できるものと、相手から得られるもの。それを支える好奇心や多様性を受け入れる価値観。
あらゆる下地あってこそだと思われそうだがそんなことはない。実は単なる意識のちょっとした差でしかない。
否、意識の差というのも大げさなくらいだ。
「へえ、それって何なの?」「じゃあちょっと一緒にやってみようぜ」
大事なのはこの二つの言葉だけだ。

そして時間の使い方。これは一番クリティカルなこと。
知識や経験は無形で無限。いわば人間社会で生きるための共有財。社会生活を送る上での資本ともなるもの。人から得た知識は忘れない限りは減るものでもないし、得た経験も決して失われることはない。
だけど時間は違う。時間は無形だけど有限。誰にもほぼ等しくほぼ同じだけの時間がある。それを切り貼りして生活することがスケジューリング。
時間は知識とは違って共有できない。僕が暇をもてあましたからといって初号機に2時間あげるなんてことは出来ない。ミヒャエル・エンデの『時間泥棒』かい?とにかく、もてあましたその2時間はどこにも行くことのない2時間であり、漠然と、だけど確かにある目に見えない2時間であり、その2時間を知識に変えるのも経験に変えるのも自由自在。
時間を通貨に見立てて、知識や経験という財を購入しているとたとえるなら、時間の使い方が比較的上手いと言われてる僕や初号機なんかは、いわば時間商人。少額の通貨を駆使して多くの財を手に入れれる。

僕は誰もに大した能力差はないと思ってる。問題は、どれだけ才能や資質と言ったものに時間という通貨を投資したのか。時間を投資して得た知識や経験が本当に自分の身の丈にあったものなら、それは投資する価値のあったものなんだろう。だけど、自分に合わないものに投資したって、当然ながらリターンは少ない。時間の使い方が下手だといわれる所以だ。
畢竟、時間の使い方なんてのは、どれだけ自分に合った先行投資を行ってるかどうかであって、つまりそれはどれだけ自分のことを把握してるか、と言うことにも繋がる。

たとえば僕が「これは先行投資だ」と言い張って野球のチームに入っても、誰も僕がプロ野球選手になれるとは思わないだろう?
それは僕の身の丈に合った投資になってない。
自己分析し、自分に合った箇所に時間を投資する。そうして得たリターンが客観的に見ても大きければ大きいほど、周りの人は「時間の使い方が上手いな」とか「要領がいいな」とか思うようになる。

日本史上最も長い太平の世を築いた徳川家康も、「人生に大切なことは、五文字で言えば『上を見るな』。七文字で言えば『身のほどを知れ』。」という格言を残している。
自分のことを知ることは難しいけど、知ろうとするに越したことはないんだろうなあ。