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2008年5月10日土曜日

ダウンコースターの野望

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MOZAIC.WAVの『三つ巴』が最近お気に入りなわけだが、これは歌い手であるみーこさんが一人三役で歌っているものと思われる。オネエ系の声はちょっと判断しにくかったが、みーこさんは「わ」の音に特徴があるから恐らくそうだろうと思う。
例えばこれがただの邦楽、あるいはただの歌であったなら、一人三役で歌い分ける意味がまったくわからないところだったと思う。
しかしながら、この『三つ巴』は三人娘のそれぞれの立場から歌った『キャラソン』であるから、一人三役と言うのは納得も行くしまた凄いとも感じる。
僕が最近『キャラソン』ってやつに多大な魅力と未来性を感じるのは言ってしまえばそこに尽きるわけであり、そういう意味合いで考えれば声優の音楽界進出ってのは必然とも言えよう。声の使い分けのプロである声優がキャラソンを歌うことによって生まれる音楽性の幅の広さは現在のところ僕には把握することすら許されない。

歌い手、あるいはバンド、あるいはプロデューサーのメッセージを乗せた旧来の歌は、あくまで一人の実在する個人としての側面が強いために、その表現には限りがあった。想像力以上に、現実的な制約が大きかった。
だが、歌そのものにストーリー性やキャラクター性を内在させたキャラソンは、現実世界の制約を受けない表現が可能であり、極端に言えば逮捕されかねないヤンデレ的歌詞や、12人の妹がそれぞれ兄を思う歌なんてのはそれこそ現実にはそうない。
平たく言えば、旧来の歌があくまで現実世界をベースにした創造物であるのに対して、キャラソンはベースとなる世界観がまったく違うし、実に多様だ。ファンタジー世界の歌もあれば殺伐とした傭兵の立場に立った歌もありえる。
そしてそうなると、当然聞き手の感想も多様になってくる。単純にメロディーがいいとか歌詞がいいとか言う、等身大の自分をベースにした感想ではなくて、自分の価値観を丸出しにした状態での感想が出てくる。それはありえない世界観に対する評価であるからだ。

そういう中で、僕が音楽的に注目しているのは『声の主』だ。当然キャラクターを生み出すプロデューサーも大事だが、僕はそれを表現することの出来る人の方が大事だと思う。
例えば、スピッツの草野さんがサンホラの曲を歌ったところでたぶん僕は何の感慨も得られないと思う。サンホラのような世界観の歌はあらまりさんやジマングさんが歌ってこそ引き立つ。B'zの稲葉さんの絶大な歌唱力を持ってしても恐らく同様の感慨で、つまりはサンホラの世界観の歌は歌い手の実力以上に表現力が求められるワケだ。
『三つ巴』は三人娘の声を使い分けてこそ初めて『キャラソン』になるわけであり、例えば平易な歌声の持ち主が歌っても、それは所詮歌い手の想像する世界の歌を『歌い手が』歌っているに過ぎない。『キャラクターが歌っている』にはならないのだ。だから、ことキャラソンにおいては歌い手はキャラクターになりきる必要が当然生まれる。

MOSAIV.WAVのニューアルバム『AmusementPack』は通常のオムニバスなアルバムではなくて、コンセプトCDとされる。
秋葉原という一つのオタク街をテーマパークに見立てて作り上げられたアルバムだ。僕はもう何度も聞いているが、そこにはみーこさん個人のメッセージは感じられない。一曲一曲の歌を歌として捉えるんじゃなくて、一つのアミューズメントと捉えることで、アルバム全体の世界観が理解出来、脳裏にイメージが湧く。

東方の曲は最近多いけど、上記のような意味合いで考えればあれらはキャラソンじゃなくて「東方テーマソング」とか「東方イメージソング」とするのが正しいと思う。と言っても僕は数曲しか知らないけどね。

僕がたぶん変なんだろうけど、僕は歌を聞いて何かの情景をイメージ出来るか出来ないかで、結構ハマり具合が違ってくる。いくら皆が「良い歌だ」と言っても聞いてて何のイメージも沸いてこなければ「良い歌」以上にはならないし、その逆も然り。
だから僕が「これは良い!」という曲を勧めても微妙な反応しか返ってこないわけで。もちろん、メロディーだとか演奏だとかにも着目するけど、イメージ出来るか出来ないかはそれ以上に重要な要素ですな。
だからかどうかわからないけど、僕がスピッツを好きな理由はそういう、歌を聴いたときの情景がハッキリと露骨すぎるほどにイメージできるからだと思う。『夜を駆ける』とか、もう完全に僕の頭の中で一つのイメージが出来上がっていて、PV的にそれをFlashで書いてみようかと思ったことも何度もあるんだけど、4分30秒の長さのFlashを作ることの難しさの前に度々挫折しているわけです。