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2007年7月22日日曜日

『飛び交う鳩さえ卵の中に孵って行く 忘れているのかな?』

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→の投票がおわたようだ。哲学・戯言が75%、日常が25%と言う結果で、僕はどう受け止めて良いのかわからない。
より好意的に解釈するならば、僕はオタク情報の蓄積された歩く平面と言うわけではなく、モモーイの歌詞で言うところの「不可解な日常」と言うやつを持つ、ちょっと変わった人間である、と言うところだろう。小豆クリームフラペチーノが飲みたい。

となると、僕が投票の結果を真摯に受け止めて、読者の望む比率で記事を更新したとなると、記事4つのうち3つは小難しい理屈を並べた哲学的論文となるわけだ。なるほど。そして4つのうち1つは僕の日常が綴られると。
ふむ。出来れば比率は逆転していて欲しかったな。そんな高い頻度で哲学的な内容を書けるほど僕は理知的ではない。

とは言え、僕が昔に比べると抽象的概念を弄ぶような理屈っぽいことを書かなくなったのには理由がある。
それは単に、僕の意見とはまったく反対の「正論」があることを知ったからだ。だから、僕の考えをいくら声高に表明したところで、書きながら自分の中ですぐに否定される。自分自身が否定するものをどうして他人に表明できよう?推敲以前の問題だ。
もっと端的に言うと、最終的に落ち着く結論が「ただの好き嫌い」であったり「人それぞれだね」なのだ。確実に。
たとえば僕が街を歩いているときに見かけた大道芸人について僕の考察を進めていったところで、そんなことは僕の思い込みでしかない。いくら「成る程そいつは論理的だ」と大多数の人が頷いたところで、それは僕の頭から発信される情報の元でのみ筋が通るようなものなのだ。明らかに思想が偏ってる人の口から「日本はもう終わりだ!」と聞かされて真に受ける人がいるだろうか?僕が言いたいのはその程度のことなのだ。

だから僕は口を噤むことにした。それが僕の独善でしかないことに気付いたから。

でも、同時に僕はこうも思う。「そんなことでは、何も言えなくなるんじゃないか?」確かにそうだ。批判を恐れて何も書けなくなると言うよりは、自分自身ですら正しさを怪しんでいるがために書けないと言ったことは、前提として「正しいことを書きたい」と言うものがある。まあ確かに僕はあんまり出鱈目なことは書きたくない。僕だけじゃないと思うが、誰もが首肯出来るような、最大公約数的な論理を構築したい。
けどそれをしようとすると、どうなるか。僕は本当の日常的なことしか書けなくなる。ニュースを見て被害者に対して「お悔やみ申し上げます」。今日食べたものが美味しかった。マナーの悪い人はいなくなればいいのに。
そういうことしか書けなくなると、自分で書いてて何が書きたいのかわからなくなってくる。最大公約数的な論理を構築したいと思って書き始めた一般論が、先ず最初に自分自身をつまらなくさせると言うのは皮肉じゃないか。いや、あるいはそれで良いのかも知れない。

次に僕が思い始めたのは、何よりも行き着く先が「普通」でしかないことで、その「普通」こそが最上であると言うことだ。毎日がエキサイティングなのは、それはそれで結構だが、少なくとも僕は毎日がエキサイティングな人生を送りたいと思わない。つまり、平穏が良い。何事もないほど素晴らしいことはない。イギリス紳士のジョーク話じゃないけど、「よかった。死にそうな人なんて一人もいないんだ」って感じだ。

まあ取りとめもなく書いたが、僕がもはや厭世主義者ではなくなったことは留めておいてもらいたい。厭世主義者って言ってもそんなたいしたものじゃなくて、単に勝手に全てが平凡で閉鎖的だと思っていただけだけどね。つまりはまあ、数年前に比べると少しは僕も変われたと言うことだ。それが成長なのかどうかはわからないけど。自分としては下手に思い込みがないだけまともじゃないかなと思っている。