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2009年5月24日日曜日

『答案真っ白でも、未来がばら色ならよくね?』

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昔僕が好きだった熱心のブロガーの方が、言語は繋げることで意味を持つようになる「可能態」である、と主張していた。
当時は今よりさらに浅い思索しか持ち合わせしかなかった僕なので、当然そんな難しいことの意味が100%解るはずもなく、ただただ「なるほど、言い得て妙だな」なんて納得をしてみたかっただけだった。

ふとその主張を思い出し、よく考えてみると、人の想像力の源は案外そこにあるんじゃないかと思いはじめてきた。

文法に従って言葉を並べて意味を「作る」ことで、荒唐無稽だが想像出来てしまう文章が出来ることがある。
例えば以下のような文章だ。

「街中で人々が足元を指差しAwesome!と叫んでいるものだから、慌てて日本アルプスを眺めてみると、干からびた吐息が斜め上からワルツを解禁していた」

文法的に違反はしていないが、常識的な文章としてはやや不適切だ。
思い付いた言葉を適当に繋いでみただけの上記の文章だが、前半は容易に想像出来る。問題は後半で、これは比喩と理解しなければ想像が出来ない。というのも吐息は干からびないし、ワルツを解禁もしないからだ。
でも、ここで想像力の出番がやってくる。「干からびた吐息」はおじいさんを示しているんじゃあないのか?そうだとすると、上空が舞台であることを考えれば、対象は神々や天使、それに類するものだ。

…なんていう無理矢理なこじつけが可能になってしまい、それがこじれて「寓話」が産まれる。
単なる、意味のない言葉遊びから、連想や比喩という想像力が介入して意味が生まれて、さらに論理や常識が横槍を入れてきて脈絡のある筋書になる。

言葉を繋げるには語彙力が不可欠だし、文法を並べるには論理力が必要だ。連想には経験が必要だし、意味に脈絡を持たせるには知性がいる。

今や力ある言葉として認知度の高い諺や、昔話の数々。それが単なる子供たちに語られる童話や、地域に根差した民話ではなく、人々の言葉遊びから生まれたものだと考えるのは荒唐無稽だろうか?しかし、荒唐無稽なものに対する意味付けを行えることを自覚した人は、果たしてそんな妄想を一笑に付すことが出来るだろうか?

歴史が勝者の日記であり、民話が言葉遊びの産物なら、僕らが思いを馳せる過去とは何なのだろうか?