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2007年1月29日月曜日

『傷つくことが怖いかね?失うことが怖いかね?信じることが怖いかね?だからこそ私は、そんな君の、話し相手になりたい』

何処ぞのサイトで目にしたのだが、オープンソース化が進み、各種ライブラリが豊富にある現在、わざわざ自分で一から組む労よりも、活用することに力を注ぐことのほうが生産的であり効率的であり建設的だと言う論は確かに正しいが、それではプログラムに対する根本的な理解をしたことにはならないから注意が必要である、みたいなことを言っていたが、まさにその通りだと思った。
高確率でプログラマからスタートし、まあ少なくともプログラムとは長い付き合いになるであろう僕からも言うと、既存のものを一から作ってみる価値と言うのは、実質的にそこに尽きる。HPを持ちたいならHTMLを覚えなくても今じゃ様々なツールやブログなんてのがあるし、ソフトウェアも簡易的に作るものであればウィザード形式のものがゴロゴロ転がっている。
だが、だからと言ってHTMLを覚えるのが無駄なのかといえばそんなわけはない。卑近な例で言うと自分風にHPをカスタマイズしてみたいだとか言う願望を持つかも知れないし。
それは昨今の教育批判の風潮にも相似するものがあるのだけど、と言うより普遍的な問題である「勉強がいったいなんの役に立つんだ?」と言う問いに対する答えの一つでもある。「因数分解が社会の役に立つのか?」と言う問いは、「PCがあるのに算数なんて要らないんじゃないか」って言う極端な例とほぼ同レベルであると言うことだ。これを子供に説明するときには、もっと簡単な例を持ち出すべきだが。
結果は手段を正当化する。
成人して尚、学校教育の批判以前に、勉強に対する無意味さを説いているやつは論外だが、義務が義務として成立してしまう理由を考えれば勉強が何故子供に対する義務になっているのかは考えるまでもなく自明だろう。んで、「勉強なんていらねえよ」って言ってる人の大半は、消費税を払うことに何の異議も唱えないのだろう。
「PCがあるのに算数なんて要らないんじゃないか」って言う極論は、すなわち、算数その他の学問が昇華して出来たPCと言う産物を肯定しながらも否定していることになる。原理的に見るとある種のパラドックスだな。人に伝えるのに最も適した言葉を選ぶならば、「僕らが便利だと思って当たり前のように使っているものは全て誰かの勉強の賜物なんだ」ってことだ。結局のところそれに尽きるし、これほど説得力のある言葉もないと僕は思っている。
「便利だなあ」と思って使っているものは、そうあるべくしてあるわけじゃなく、誰かが、使う人が便利だと思うように配慮して作られたものに他ならない。こういう論理はあらゆるところで通用すると同時に、この視点を失くしてしまうと本当に非生産的な人間になりおおせてしまう。

話は戻って、最終的にはプログラムを極めるよりかは情報そのものを扱う仕事をしたいと考えている僕からすれば、大事なのはどのライブラリが最も有用で、どのライブラリが最も汎用性が高く、等々と言ったことであり、どういう理屈で動いていて、だとか、どう使えばいいか、だとか言う問題は僕にとって全て瑣末なものだ。要するに、そのライブラリがあることで誰がどういう影響を受けて、何がどう変化するか、と言うことに僕の主眼は置かれるわけで、つまりはそうした視点を活用する仕事を切り開きたいと思うわけだけれど、そういう比較考察の対象に入るライブラリが全て外国のものであったりと、技術的鎖国を元気に突っ走ってる雰囲気のある祖国日本にはそういう余裕はあるのかなあと思う次第でした。

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