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2007年3月15日木曜日

『限りなく同一に近づける 追憶は狂気にも似た幻想』

『タグ付け』と言う概念メソッドは、今後のコンピューティング技術において確実に基盤に据えられるものだと、僕はなんとなく確信する。
SBMやなんかの汎用的かつ広域なデータマイニングにおいては、今までの狭義な意味でのデータ間関連技法は通用しない。通用するのは概念だけで、半物理的な意味でのリレーションシップは使えない。

先ず、具体例を示そう。
このブログ。最近、僕はその『タグ付け』と言うやつに夢中で、投稿する記事を個別の『もの』として識別するために、要素としてのタグを付加している。
それがリンクを伴う記事であれば、『ニュース』『これはひどい』『政治』等の、その内容を端的に表すためのメタ情報。そのメタ情報のことを『タグ』と呼ぶ。
僕はこのブログでは記事一つ一つを『モノ』と見做してタグ付けを行っているが、別にそれはブログに投稿される記事に限ったことじゃない。
Picasaのウェブアルバムを利用し始めたわけだが、そこにアップしている僕の所有する数多の画像にも、今はまだ全部ではないが、『萌え』だとか『○○(←作家の名前)』等のタグがつけられている。
また、Gmailでもそうだ。僕は現在就職活動中なので、平時に比して更に色々なところからのメールを受信する。そういうときに、自動的にフィルタリングされてタグを付けるように設定しているのだ。
例えば、リクナビからメールが来たなら『就職活動』『リクナビ』、毎日ナビなら『就職活動』『毎日ナビ』と言う具合に。

タグ自体は元はおそらく商品管理に用いられていたものだと思うが、その概念がWEB上に降りて来た。

ではどういう利点があるのかと言うと、上記の例でもわかるとおり、膨大な数に上る情報をカテゴリ分け出来るというメリットが最も多い。
Gmailで顕著だが、メール一つ一つに対していくつかのタグを振り分けておくと、後々「あれはなんだったっけ」と、キーワードすらも思い出せないときに、タグで絞っていくことが出来る。
記事や画像ならば、関連するものを全て引っ張り出すことが出来る。共通するタグが多ければ多いほど、それらで絞り込まれた結果と言うのは内容的に近似する。

情報整理としての手法としての『タグ付け』であるがゆえに、デメリットと言うのはあまり思いつかない。
強いて言えば、どのタグを振るのが最も客観的に適切か、と言うところだろうか。
多数の人の持ち寄った情報をカテゴライズするためのタグなので、それは矢張り誰もが納得出来るものでないといけない。
だが、タグをつけるのが、その情報を投稿する本人であるので、やはり主観の差と言うのは必然的に出てきてしまう。

例えば、僕が萌え死ぬような画像を登録し、そこに『萌え』『これはエロイ』『ゾンビ』と言う3つのタグを振ったところで、見る人が見れば萌えはするがエロくはないし、ゾンビだけれど萌えはするしエロくもない、と言う感想を抱かれるかも知れない。
約言すれば、萌えてエロくてゾンビなように捉えることが出来るのは僕だけだという風になる。もちろん、同じ捉え方をする人間を探すという意味での、主観的近似を探す役割としては有効なのかも知れないが。
その3つのタグを貼り付けてはいるものの、実際の画像がただのゾンビ画像であったならば、『萌え』と言うタグで検索してきた人にとってみれば、それは明らかにジャンク画像であり、見る価値なしと判断され、「どこが萌えなんだよクソが!!」とのお怒りを甘受することはほぼ疑いない。

タグの組み合わせによって主観の差が生まれ、それによって内容が湾曲され、タグの各々の持つ意味は変異する。
逆に、タグ単体で見ても構成要素としてミスマッチな部分があるが、組み合わせ全体としてみれば正しいこともあったりもする。

公明正大なタグ付けを心がけたい所存。

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