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2008年1月11日金曜日

チーム行動における5つの失敗要因

卒業旅行まで今日を含めて後3日。土日を過ごせばもう出国の日。楽しみ。
一方、学校の方で進行中のプロジェクトの納期は28日。
帰国してくるのが23日。24日は休みで25日の金曜日は通常授業。25日が終わって土日を挟めばもう納期。
現在の進捗状況は最悪。形にすらなっていない。諸君、現状はどう控えめに見ても地獄だ。

だが、ここまで手痛い失敗を経験すると、色々と得るものがある。価値ある教訓だ。学生の間に実感できて良かったと思う。
僕が感じた失敗要因をちょっと分析してみよう。大きく分けて5つある。

1:役割分担と指揮系統

うちのクラスはガチガチの階層構造を採っていた。その階層によって明確に責任と仕事が分けられ、指揮命令系統も決められていた。最もオーソドックスなトップダウン式の組織形態。
連絡は階層を通じて行われ、階層を飛び越えたメンバー間での意思決定は原則として禁止。
つまりはまあ、「自分勝手に動くな」と言う構造である。

が、これを失敗の要因として僕が挙げる理由は、単純にそれが守られなかったからだ。
階層を無視した意思決定。「仲が良い」と言う理由で連絡なしに行われていた命令。報告や相談もなしに書き換えられたドキュメント。
結果として、個々人が自分勝手に動きすぎたために、「誰が何をしているのかが誰もわからない」状態が生まれた。
そうなってしまうと収拾がつかない。現状把握にすら多大な時間を要するし、時間は限られているのだからその間にも着々と事態は進行する。もちろん悪い方向へとだ。
統制の取れない組織では往々にしててんやわんやになりながら一向に物事が進まないという事態になるが、僕らのクラスも例に漏れずだ。特に年末年始はまともに進んでいない。少なくとも、僕の知る限りでは。僕は上から2番目の階層に位置するが、そこですら何がどうなってるのかがまったくわからなくなってるのだ。

しかし、体制の崩壊と言うのは結果に過ぎず、それを成す原因がいくつもある。


2:コミュニケーション

意思決定は話し合いなしには行い得ないものだが、その話し合い自体が8割方無駄である。
無駄な話し合いの中にも、「近視眼的な話し合い」や「馴れ合いでしかない話し合い」等色々あるが、今回特に目立ったケースは「重箱の隅をつつくような話し合い」だ。
上位グループの誰かが「こうしよう」と言ったとすると、「じゃあこういう場合はどうするの?」という質問がひっきりなしに飛んでくる。一つのイレギュラーに答えきれないと鬼の首を取ったかのように批難され、その結果意思決定は遅々として進まず、その対応に追われるだけで時間が無碍に過ぎていく、というものである。
方針そのものに対してではなく、方針に従った結果出てくる諸問題について事前に語り合うのは、方針を全員に周知させることに比べて重要なことだろうか?僕はそうは思わない。
その話し合いが「何について話し合っているのか」という共通認識を持たない上で行われる話し合いにおいては、ほとんどの発言が的外れなものになる。

このカテゴリにおいてもう一つ目立ったことがある。それは「コミュニケーション手段のほとんどがメッセンジャー」と言うことだ。彼らはあまりにメッセンジャーに慣れすぎていて、他の連絡手段をあまり知らない。あるいは使わない。(当然会話がコミュニケーション手段としては最多なのは疑いようもないが、会話になるとどうしても馴れ合いの要素が強くなる。)
メールや掲示板、はてはブログからグループウェアなど、報告・連絡・相談の3つのコミュニケーション手段には事欠かない時代であるし、ましてや僕らはそれを専門としているのに、手段の8割がメッセンジャーだ。これを問題と見るかは意見の割れるところだろうが、僕はどうだろうと思った。
ファイルの送受信はメッセンジャーの機能を利用。タスクの振り分けはメッセにいる人から優先的に。理由は簡単。メールで投げたらいつ読むかどうかわからないから、すぐに応答があるメッセのほうが振り分けには安心だから。
果たしてそれで良いのか?
デメリットは、基本的にメッセンジャーのやり取りが一対一のやり取りに終始してしまうこと。多くても6~7人。それくらいの人数で話していれば、事態がうまく進んでいるように錯覚しがちだ。しかし、たとえ5人で話し合っててその感覚に陥っても、実際には他の43人にはまったく伝わっていないのだ。
もしもタスクやスケジュールの管理が掲示板か、あるいはグループウェアで徹底して行われていたならば、どのタスクの進捗状況が悪いかが一目瞭然だった。
一対一でのやり取りが多くなると、それは情報の不透明化に繋がる。
一対一、一対多、多対多、コミュニケーションの手段はそれぞれ違う。すべて、特性があるのだ。


3:怠惰と集中

要因は全体から個人へシフトする。
「本分は勉強」という学生の定義はもはや形骸化し、「社会へ出るまでの遊ぶ期間」としての意味合いが強いため、どうしても怠惰な部分が出てしまう。
逆に言うと、「学校にいる時以外は自由時間」と言う認識が跋扈しているため、連絡が途絶えることがよくある。場所に依存せずいつでも同じように連絡を取れるテクノロジーがあると言うのになんとも皮肉なことだと思う。
しかしながら僕はその辺りを否定する気はさらさらない。僕も本質は怠惰だし、出来るだけ面倒なことはしたくないという性格だ。
だが、大事なことにはメリハリをつける。遊ぶのは大いに結構。だが、やるときはやれ。それだけだ。これは自律の問題になる。大層なことを言えば教育的な問題なんじゃないだろうか。あるいは、社会的な。


4:能力

話題はより個人的なことへとシフトする。しかし、この要素は「個人にとって不利」の域を出ず、組織としての悪い状況を招く最大の原因には到底なりえない。
グループ単位で割り振られた仕事は、ブレイクダウンされて個人単位のタスクとなるわけだが、そのタスクすら満足にこなせないほどの力量の人が多い。それらは今まで何度も何度も学校でやってきたことだ。高校でやる数学のように形而上的なことではなくて、実業務における基幹作業的なものだから、「授業では習ったけど出来ません」って言うのは「仕事に出来ません」と言ってるのに等しい。乱暴な言い方をすれば、今まで費やしてきた時間と金を全否定するようなものだ。
もっとも、能力には個人差や適正があるので一概には言えないのだが。
だが少なくとも、上記で述べた通り、階層によってやることが明確に決まっているのだから、自分には荷が重いと思えたならば先に勉強しておくなり色々手は打てたはずなのだ。
しかしそれも個人差のある要領の良し悪しでもあり、世の中に世渡りの上手い下手がある理由でもあるのだから、やはり一概に言えたものではない。一ついえることは、誰もそういう教育はされていない、と言うことだ。現在の学校教育では、協調性は入試に有利な点数にはならない。
それにしても、4年間も勉強してきてDBの設定すら一人で出来ないのは本当にどうかと思う。


5:情報共有

もし、以上に書いた4つの要因がたとえうまく行っていたとしても、この項目だけでもうまく行っていなければ同じ結果になっていただろう。それくらい情報共有と言うのは重要なのだ。
と言うよりも、あらゆる共同作業で発生する苦労は、これをうまくこなすことだと言っても過言ではない。
全ての情報の共有が行われていたら、管理が必要な階層構造などを意識しなくても全員がフラットな立場で協力してやれるし、コミュニケーションの手段やその内容の是非も問われることはそうそうないだろう。まったくフラットな立場なのであれば能力や性格の差は補う合うことが出来る。
今回、僕らがもっとも苦慮した点はまさにここに集約される。
「状況はどうなってる?」と言う最悪の質問が発せられたときに、情報が一点に共有されていれば、マウス操作一つで全てを把握することが出来たのだ。それが出来ていなかったから、いつ捕まるかわからない個々人にメールを送り電話を鳴らしながら、膨大な時間をかけて状況を把握しなければならなかった。
最新版のドキュメントがどこにあるのかわからないときも同じで、一点に共有されていればバージョン違いによって苦しむことはなかった。
誰かが質問するときにも、掲示板のようなものを設けて全員で共有していれば、質問の伝言ゲームを避けることが出来、また「回答できる人」が回答するという集合知的な使い方も可能だった。僕らは質問は大抵メッセンジャーがオンラインになっているときか学校で実際に会ったときにしかされなかった。メールで何度かやり取りがあったが、その質疑応答が当事者以外にまったく知られることがなかったので、共有と言うには程遠かった。


とりとめもなく書いたが、技術力や単純な頭の良さと言うのは正直なところ問題にならなくて、集団において最も大事なのは思想的なことなんだろうな、と断言したくなってきた。ポリシーと言えばいいのかな。一貫した何か。問うべきは手段ではない。

ああ、一応言っておくけど僕は今回はリーダーでもなんでもない。とあるグループのとある一員でしかない。

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