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2007年3月25日日曜日

『愚者は問う。鉄壁の王城を捨て、女王はいずこへゆくのかと。賢者は知る。どれほど堅牢な守備を誇ろうと、陥落しない城など存在しえぬことを』

高等教育の構造的問題を解決するには

この方のブログは辛辣で面白いのでよく読ませて頂いているのだが、僕が過去に

:一人称の世界: :: 時代の価値観

で、
だから、僕が大学を辞める決意した(一応蛇足的に言うが大学に入る前に大学を辞める決意をしたのだ)のは一種の賭けだった。大学に入学し卒業することが当たり前になってしまえば、「大学も出てないの?プギャー」と笑われるか、あるいは、大学そのものの存在意義を見直すような時代になるか、のどちらかだと思ったからだ。そして、僕はその頃から4年間遊び倒すような人のことを知人から多く見聞きしていたので、「そんなのがスタンダードになるはずがない」と思って、後者を支持するようになったのだ。

と言う風に書いたのだが、僕が18歳のときに主張していたことが、今こうしてそれなりに有識だといえる方が
根本にあるのは、「企業が「四年生大学卒」の肩書きに対する評価を下げつつあることが進学を考える学生の保護者に良く伝わっていない」ということです。「九九もできない大学生」というのはいくらなんでもレアすぎるサンプルですが、「むかしの高卒レベルがいまの大卒レベル」(おそらく十五年から二十年間くらいの変化のことを指して、大学や予備校の人はこう評論することがありますね)であるなら、「どうせうちの子供がなんの苦労もせず入れる大学に行って四年間遊び暮らすなんていうことは無駄だ、高卒で就職させよう」と「そういう学生」の保護者が思うようになれば、「勉強できない大学生」の「社会問題」は自ずと軽減されていく。

と言う風に、後押しするかのように書いてくださるのはなんだか嬉しいことだね。
別に僕が正しかったとか言うわけじゃないけど、単なる僕のエゴではなかった、と言うことの証明のようにも思える。
しかも、

教育再生会議:大学の「卒業認定試験」導入検討

ってなことがあったり、大学の進学率は下げるつもりはないけど質を高めるような努力はするようだ。逆に言うと、今の質では問題があると思ってらっしゃる、と。

でも、僕が勘違いしちゃならないのは、僕の意見を裏付けするような、いわば僕に有利ないくつかの記事やトピックを持ってして、「ほら見たことか僕の言ったとおりだろ」と言うのは、完全に井の中の蛙なんだってことだ。
僕や福耳さんや教育再生会議は、まあ同ベクトルの主張を有しているかも知れないけれど、まったく反対の、等量等質の主張だってあるはずだから、それを知らないといけない。自分サイドの主張だけじゃ説得力がないからね。説得力ってのは統計的なもんだと思うし。

まあここで僕の話をすると、僕は就職活動で、専門学校の身で、試しに大卒以上のみの応募のところに申し込んで、一次選考を受けてきた。
SPIと呼ばれる簡単な学力審査みたいなやつね。プログラムの問題もあったり、文章作成能力等々、まあ短時間にしちゃそこそこ多角的だなって思える試験だったんだけど、確実にほぼ全問正解な手応えを感じたんだけど、やっぱり落ちた。
当たり前だけど、書類選考の段階で、大卒向けのアンケートに対して専門学校のこと書いてるんだしな。先ず前提が違うってこった。
あくまで試しに受けてみただけだから、結果もわかってたんだけど、そういう風に『高専は不可』って企業なんていくらでもあるし、まだまだ多い。
で、福耳さんの
「企業が「四年生大学卒」の肩書きに対する評価を下げつつあることが進学を考える学生の保護者に良く伝わっていない」

だけど、これはなんか金太郎飴みたいで、その企業の中層部以上の人には、やっぱりその『進学を考える学生の保護者』ってやつが含まれてると思うんだよな。
つまりこれはどういうことかっつーと、企業人であると同時に保護者である、で、気付いた人は福耳さんの言うように評価を改めるし、そうじゃない人は改めない。簡単に言うと、企業でも二極に分かれつつあるんじゃないかってこと。

ここからはあんまり関係ない話。

日本のソフトウエア生産性と品質は世界最高水準

今回のエントリーを読んで、目から鱗がポロロンだった。
「OSやミドルウエアがアメリカ主導なことは認めるが、アプリケーションソフトの開発では、日本の技術力は世界最高水準にある。ではなぜ国際競争力がないのかといえば、日本でどんなに優秀な生産管理システムや会計処理システムを開発・構築しても、世界標準の仕様とはほど遠いので、世界ではまったく使いモノにならないからだ」

まず日本人技術者の生産性の高さ、成果物品質の桁違いの高さは、何人ものアメリカの学者の科学的調査で報告されている。さらに事象として、実は日本はソフトウエアの国際競争力トップの分野がただひとつあるんだ。それはアミューズメント系、ゲームソフトだ。この分野はニンデンドーという先駆者の存在、世界トップの日本のアニメーション製造技術、いくつかの日本に取り有利な条件があったが、日本がトップに君臨している最大の理由は、日本社会の独自習慣に仕様をあわせる必要が無く、はじめから世界標準の「楽しさ」の追及だけで勝負できたからだ

本当に良い指摘だと思う。
完全に鎖国状態に入った携帯業界の例を見てもわかるとおり、独自企画にこだわりすぎなんだ。
シグマ計画とかにしてもそうだし、こないだも政府主導のLinuxを作ろうなんてのがあってその後の音沙汰もないし、どうして日本はこうなのかと。
大体、「日本が世界標準になるべきだ!」って言う主張はそもそもがなんかおかしい。
世界標準ってのはたぶん結果であって、志すことじゃない。良いものを作れば、自然にそれは普及し、勝手にデファクトスタンダードになる。
だから、標準標準と模索しているうちに、「こうすればいいんじゃね?」とどっかの誰かが奇天烈な発想して、「それは新しいね、それでいこう」と誰かがゴーサインを出し、それで生まれたものは高品質には違いないが他との互換性がまったく無視された、いわば「独自規格」だったと。僕はそう見てるんだが。
携帯コンテンツの充実度は本当にすごいと思うけど、互換性がなさすぎ。挙句の果てにデザインが一緒。その割にすぐ買い換えないといけない。これが経営戦略でなくてなんだというんだ?国内だけの経営戦略そのものがすでに時代遅れだということに気付いたほうがいい。特にデジタルメディア関係。
篭城が最上の戦略であったことが今までにあったなら、どうか僕に教えてほしい。

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