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2007年11月25日日曜日

『一つだけ色の違うボタン 気に入らなくて捨ててしまったけど大人になったときに ズレた世界も愛しく思う』

特技があればひとまず食うには困らない、なんて時には聞く言葉だけれど、実際のところその食うに困らない『特技』ってやつも定義するのが難しいように思う。と言うのは特技ってのはどこまで考えても相対的なものでしかなくて、例えば友達の間で一番○○が上手いからこれは自分の特技だとか言っても、別の友達が出来ればそんなのは特技でも何でもなく普通の技能であったりなんかして、そうするとたまたま前の友達はそれが苦手だったのかも知れない、と言うように、広げれば広げるほどに意味が違ってくる。じゃあ、食うのに困らないレベルってどういうこと?ってなるんだけど、それはもう前時代的なノリで、特技で何か困っている人を助けることにより報酬を得る、と言う意味での言葉なんじゃないかと言う結論になる。
僕はご存知のように多芸非才極まれりな人間なんだけど、そんな僕が自分の特技で何か食っていこうかと考えると気が滅入るどころの騒ぎじゃなくて、「一体自分は何が得意なんだ?」と言う禅問答に陥ってしまうこと請け合いなわけですよ。
最近はあんまりだけど、以前はよく趣味で絵を書いて同人誌も発行したりしてて、「絵が上手いね」とお世辞でも言われるレベルだったけど、そんなレベルなんて同人界の中じゃ下っ端も良いところなわけで。
同じように、実は今日久々にバンド仲間たちと朝2時間半ほどスタジオに篭もって音楽をやってたんだけど、それだって学校じゃ「演奏上手いね」何て言われるレベルかも知れないが、アマチュアバンドすらやっていけないようなレベルなわけで。
同じように、頻繁にやっているボウリング、1ヶ月に一度やることを習慣付けているテニス、冬場になると必ずいくスキー、それに学校で専門的に学んでいるプログラミング、等々、僕の活動範囲はそれなりに広いんだが、まさに器用貧乏と言う具合にすべてが「ほど良く出来るけど特技とは言えない」レベル。
とまあ自分を例にとって見ても、「特技ってなんだ?」って言う問いに対して禅問答めいた自己否定論理が繰り広げられるで、つまりはまあ曖昧なもんだよなって言うこと。
一つのことをずっと続けてやって、それをほとんどの人が認めるようになれば、それはいつの間にか特技と言うよりはプロの仕事みたいなニュアンスに変化するわけで。
突き詰めれば、特技って言うのは相対的なもんだけど、自分で言わないことには定義されないものなんだよな、とか思ってしまう。
だから、僕は絵を描くのが特技です、と言ったところで、肯定もされれば同じくらいの頻度で否定もされるわけだ。
でも、ほんの一つだけ忘れちゃいけない視点があって、それは趣味との違い。
履歴書に趣味と特技を書く欄が設けられていて、それを見るたびに僕はいつも「一体何が違うんだろう」と思っていて、重複してるような内容しか書けなかったんだけど、今ならなんとなくわかる。
それは、趣味が嗜好の問題であるのに対して、特技はプレゼンスの問題であると言うこと。
項目が同じだったところで別に良いと思う。だって、捉えてる面が違うだけなのだから。
「僕の趣味はスキーです。そして僕の特技はスキーです。」
こう言うと、「僕はスキーが好きなんです。あ、洒落じゃないです。そして、スキーが上手いと言う自負があります」と言うニュアンスを含む。
「僕の趣味はスキーです。」
だけならば、「僕はスキーが好きなんです。あ、洒落じゃないです。でも、純粋に楽しんでいるだけなので技術のほどは詮索しないでください」みたいなニュアンスになる。
「僕の特技はスキーです。」
であれば、「僕はスキーが上手いと言う自負があります。でも、別に好きでやってるわけじゃありません。」となる。

じゃあ、特技がプレゼンスで、かつとても相対的なものだとすると、正直言って「僕の特技は〜〜〜」と言うのは少し気が引ける感覚も納得がいくと言うものだろう。だって、それは言外に「僕のスキーの腕前は平均よりは確実に上ですね」と言ってるようなものだから。そういうニュアンスは日本ではあんまり好かれないので、みんな自己紹介をするときには「僕の趣味は〜」と言う言い方をする、と言う結論に落ち着くとちょうど綺麗に終わるのかな?←結論

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