ページ

2009年4月14日火曜日

タイクツとユウウツ

人の生き方に正しいとか間違っているとかがあるわけないのはわかっちゃいるけど、僕は間違っているんじゃないか、あいつのほうが正しいんじゃないかと言う疑いは常に脳裏にあるわけで、そのたびに他人を見習ったり自己嫌悪したり忙しいのだけど、結局のところ、何かの道を選んで突き進んだところで、「だから何?どうなるの?」と言う質問によってすべては無意味になってしまうような気がして、何をしようにも地団駄を踏んでしまう。
もちろん、自分の選んだ道を進むことこそが最も意味のあることだと、僕もそう思う。

僕の家で飼っている鳥はかれこれ13年ほど、ずっと鳥篭の中にいて、きっと死ぬまで鳥籠から出ることはないのだろうと思うけど、それをして「無意味な生き方だ」とか言うやつがいたら僕は本気で怒るだろう。僕はその鳥を大事にしていたから、鳥の人生(鳥生?)を無意味だなんて絶対に思わない。
「鳥は自由に飛んでこそ意味がある」と言う人もいるだろうが、それは意味の一面だ。不自由と無意味、自由と意味を直結させた意見だ。どんなに不自由でも、誰かが意味があるといえば、そこに意味はあるのだ。(逆に、意味がないと誰かが言っても、それは無意味にはならない。素敵なことに。)

とにかく、何かをしたから意味があるとか、何もしないから意味がないとか、そういった簡単な二元論では何も語れない。「意味のあること」の定義はとても難しい。
いわゆる「勝ち組」になったら悩みとは無縁になるかと言う質問にはNoと誰もがハッキリ言えるが、「負け組」が無意味な人生の結晶なのかと言う質問に即答出来る人は、よっぽど価値観の凝り固まった人を除き、いないだろう。

いずれにせよ、僕らに出来ることは時間の経過をただただ感じることぐらいなのだから、どうしようもないのだけど。

0 件のコメント: