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2012年6月30日土曜日

赤朽葉家の伝説

約50年に及ぶ赤朽葉家の物語。

3部構成になっていて、1部は語り部の祖母の生い立ちの話。時代は昭和初期。
2部は語り部の母の生涯の話。時代は昭和後期。
3部は語り部自身の話。時代は現代。 1部を読んでたときは、「屍鬼」の1巻(文庫版)を読 んでるようで、正直言うとつまらなかったけど、1部の後半から面白くて止まらなかった。

時代の価値観の変遷の書き方がうまいなあ、と思った。
約50年間に及ぶ物語のため、エピソードは端的にし、時代背景を絡めた心情の変化や、同じ街の変化などを精緻に表現しているため、いわゆるジェネレーションギャップってやつが客観的によくわかった。

村社会から近代化し、高度成長期、オイルショック、冷戦、昭和の終わりと平成の始まり、等々、まるで近代日本史もついでに学べたようなお得感。

それぞれの社会背景を、同じ家、同じ街から捉えてる視線はとても親近感のある視線で、なるほど主観的な文章になるとこうなるのかと思った。

僕らの生きている時代も、それはもう色々なことが起きていて、二度の大震災、アメリカの911テロやイラク戦争、中東の民主化やインターネット時代の到来、中国の巨大化や日本の没落、など、世界史の教科書を分厚くする内容は盛りだくさんなんだけれど、果たしてそれを僕らの日常と関係するように記述しようとしたところで、うまく伝わるだろうか?

主観的な文章にした時点で、庶民の僕らには世界史の教科書に載るようなことは日常にとって些末なことだということがわかる。世界のことより生きることのほうが大事だということがわかる。遠い場所の知らない偉い人より、近くにいる平凡だけど大切な人の方が大事だということがわかる。

周りの環境は変わるけれど、それは僕たちの生活には直結しない。遠くで戦争やテロが起きていても、常識的に考えて僕らが明日命を失うわけではない。だから僕らは日常を続けていられる。
でも時代の移り変わりに対して不変でいることは、緩やかな自殺と変わらない。時代に合わせた生き方が必要なのだ。

赤朽葉家の当主は代々、古くから続く家を守るために、時代の変化に乗ることで生き延びることが出来た。 もしあそこで古いものを捨てられず、新陳代謝せず、旧態依然と戦後間もない時代と同じことを続けていたら、この物語は2部の途中で終わっていただろう。

最終的に生き残るのは、強いものでも弱いものでもなく、変化できるもの。
誰もがよく知るそんな名言を心に刻みながら、僕はこの、50年間を綴った物語を傑作だと認定したいと思った。

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